毎年お盆には、私の家族は母の実家である秋田に帰ります。一年を通して、家族皆がそろって出かけるのはこのお盆の時くらいです。今年は私が欠けているので、3人で行くようです。お墓参りができなくて、ごめんなさい。

そして、今日はたったひとりの兄弟、兄の誕生日でもあります。 私事ながら、
Happy Birthday my brother!!
昔は顔を合わせる度にケンカして、そのおかげでひねくれた妹になりました。お互い大人になったのかな?今はちゃんと話ができるようになりました(多分)。こんなことを書くと、「Lisaが子供だっただけだ」と言われそうだけど、そんな子供の私を相手にケンカを売ること自体、兄も十分子供だったと言いたいです。今はケンカをすることはなくなったけれども、些細なことで言い合いになり、本気になり…とこの関係はいつまでたっても変わらない様です。


しかし、兄弟って不思議ですよね??なぜそんなにケンカをするのでしょうか?中には、仲が良くて一度もケンカしたことがないという兄弟もいるかもしれませんが、私の周りの兄弟話を聞くと、やはり子供の頃はケンカばかりだったと言う人が多いです。原因は性格の不一致とか、物のとりあいとか、でもそれだけでは説明できない気がします。ケンカのキッカケは小さいことかもしれませんが、奥底にはもっと複雑な心理が入り混じっていて、例えばライバル心とか嫉妬心、または憧れや好意の表れ…等、それぞれの家庭事情以上にそれぞれの兄弟・姉妹事情があって、親と子供の関係以上に複雑な気がします。

と‘兄弟について’だけで1コラム終わってしまいそうなのですが、今回は‘家族について’考えてみたいと思います。
「今」気がついたのですが、こんなにも長い間、家族から離れて暮らすのは生まれて初めてのことです。今までも一人暮らしはしていたのですが、少なくとも1〜2か月に1回は実家に帰っていました。だからここNZに来て、約8か月間家族の誰とも会っていないというのは、最長になります。
もしかしたら、ワーホリの方の中でも同じような人がいるのではないでしょうか??
皆さんは、時々家族のこと考えたりしていますか??
皆さんにとっての家族とは何ですか??
私は最近、いえ最初からあまり連絡を密にとる方ではなかったのですが、そして家族もまた時々しか連絡をしてこないのですが、でもなぜか安心感がいつもあります。

つい最近、日本へ帰国する友人と夕飯を食べながらこんな話をしました。
「私たちが今こうしてのほほんと海外で生活していられるのは、家族という存在があるからなんだよね…。帰る場所がある、実際にはまだ帰らなくても心が戻れる場所がある、安らぐ場所がある、だからここでも一人でいられるのかもしれない…。例え一人ぼっちになっても親あるいは兄弟は味方になってくれると信じられる…その安心感があるよね。」と…。
そして話は発展し、そこから非行問題や教育問題といった議題になりました。
「人格形成に大きな影響を及ぼしているのも、やはり家族なのではないか…」と。
この時ふと高校時代の担任の教員と「性格は変化するものか・しないものか?」という議題で話合ったことを思い出しました。なぜ私がこのことを明確に覚えているのかと言うと、
納得がいかなかったからです。(なんとも頑固な私…。)先生は変化するものだと言い張り、
私はもともとの性格は変わらないと思い、逆にそんなに簡単に変わってしまってはその人らしさがなくなってしまうではないかと感じたのです。
自己確立を目指すあの頃に、自分らしさが変化することが怖かったのかもしれません。今の私の考えは、やはりもともとの性格は変わらずあって、でも環境や経験によって変わり得るものもある、そう思っています。きっと先生もこの様な意味に近かったのかもしれませんが、あのころの私にはすべてが変化してしまう気がして、何とも受け入れ難いものでした。そして、そのもともとの性格は生まれつきの性格で、家族の誰かゆずりのものかもしれないと思うのです。さらに家族はその後の人格形成にも影響を及ぼす存在でもあり得るのです。
と話しはとびましたが、家族って単純だけどとても深い。あるいは、深いけれども実は単純。
皆さんも一度、家族って何か??考えてみてください(お時間があれば)。きっと人それぞれ違うと思いますし、私もなかなかスッキリした答えが出てきません。生まれることを「新芽」と例えるなら、「新芽」を出すことも成長することも「根っこ」があるから。良いことも悪いことも共に吸収して、決してキレイ事だけでは表現できないけれども、それでもすべてを受け入れ、しっかりと支えてくれている「根っこ」のような存在、それが私にとっての家族。これが今の精一杯。
「家族、それはへんてこなもの」これは私が好きな作家さんの本の一つです。
その通りだな〜とつくづく感じて、むしろ答えを出そうとすることが間違っているかもしれない…。
そんなことを考えている今日、兄の誕生日。
お互い枯れないようにたくましく、そしていつかそれぞれの根が張れると良いですね。



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(Lisa)
離れて暮らすと、家族の大切さ、親のありがたみを感じますよね。
いろんな体験をするうちに、知識や経験や感動が蓄積されて、性格や人当たりは変わってくるように私は思います。
教育やしつけで子どもが成長していくということは、言い換えるとそういうこと(=かわっていく)ということになるのではないかと思います。性格がかわるという言い方にあてはまるかどうかはわかりませんが、もっとよくなる、成長するという意味では人間は「かわる」ものだし、変わっていくべきだと私は思います。
教育、しつけの意味がそこにあるような気がします。
素敵なご家族ですね☆
私にとっての私の家族はすさまじく絶対的存在です。
だけど、、。
家族はやっぱり特別だけどそれに代わる存在もあるべきだしあると信じています。
その家族に代わる存在も含めて家族と呼ぶのなら、それは全員にとって絶対的な存在なのかな。わからない。
やっぱり神様はいじがわるいです。
新しい栄養は、大人になる時、また、なってからの人との出会いだと思います。たとえ枯れそうになっても、なんか励まされて、栄養貰って保っていると思います。あと、自分の栄養素は趣味かな。。。なんて、夜遅く考えちゃいました。。。。。
はっぴぃきうぃ様
そうですよね、人間は変化していく生き物。しつけや教育、そして何よりもそれぞれの経験が個人を表しているような気がします。人それぞれ弱みや強み、許容範囲みたいなものが違くて、その全てが長い人生の経験により成長あるいは欠落していくものかもしれませんね。そう考えると、家族は社会経験を踏む準備段階の大事な経験だと言えますね。なんだか難しいですが、準備段階でたくさん経験できて今は家族に感謝です。
ayako様
ほんとに、考えれば考えるほど分からなくなります。でも、ayakoさんの言うすさまじく絶対的存在。とても分かります。家族に代わる存在…それはまた違う絶対的存在となるのか?それとも代わるのか?代わった時、その皆が同じ感覚でいることは難しい気もします。多少なりとも強弱があって、そこで差が大きすぎるとすれ違ったり…とか、なのかな?
答え、出ないことが正解だと思えてきました。
Ei-Taro様
なるほど、栄養がないといくらたくましい根っこでも枯れてしまいますもんね。人との出会い、全ての経験が栄養となって自分を成長させてくれるものだと私も思います。私の栄養素は…何だろう?こうして色々と考えていることかな。栄養をもらって、そこから栄養素を取り込んでいると考えると…。
私の家族は私にとっては比べるもの、代わるものが全く無い最上級の存在ですが、そうでない人たちもいるということを少し言いたかった。
家族がいない人や、愛のない家族や。
だけど血のつながりとか戸籍上の家族とかそういうことを超えて、家族に代われる絶対的存在がいるという可能性を信じています。
オール明けのテンションで本当にすみません。。この暑苦しさ、後悔すること間違い無し。
再コメント、ありがとうございます。
ayakoさんの熱さ、好きですよ。ayakoさんの言う「家族に代われる絶対的存在」という意味がようやく理解できました。
そして私もしつこい+暑苦しい人間なので・・・。
家族に戸籍や血のつながりは関係ないと思います。
これは自信を持って……。そして、家族に代われる、家族になり得る存在がいることを私も信じます。
また熱いコメントお待ちしております。
Kickoff-T様
コメントありがとうございます。
それぞれの家族にそれぞれのかたちがあって、そのかたちも変化している。私にとっての家族は根っこのような存在だけれども、きっとそれぞれに違うかたちがあると思います。皆さんにとってはどんな存在なのか色々聞いてみたいものです…。