
前にも言ったように今アメリカのメリーランドにいる。それは彼のお兄さんの結婚式に参加するためだ。この彼とは婚約をして、こっちにいるといつも「フィアンセのAiです。」と人々に紹介される。でもその度凄く不思議な気がする。「この人で本当にいいのか」という気持ちはいつだってある。人間完璧な人なんていないし、完璧な恋愛関係なんてないのだから、結局は物の考え方で、友達のヘレンが彼女の彼を「私の彼は完璧だわ。」といつも嬉しそうに言っていたように、完璧でなくてもそう思えることができることが一番大切で幸せなのかもしれない。

それがまだできない私は彼との関係を「運命なのだろう」といいのか悪いのかそれで済ます。

「留学」なんて言葉は高校の時も大学の時も思い浮かばなかった。高校の時は地元の普通の公立高校だったから周りに留学した子もいないし、毎日バスケ部の練習や学校のイベントや目先のことで精一杯で、でも凄く毎日楽しくてその生活に集中していた。

大学の時はスキークラブに所属していて、毎年冬には長野の山に篭ってスキーを練習していた。英米文学科だったため、周りに留学する子もいればクラブの中でも短気留学を含めれば沢山の人が留学をしていた。それでも毎年のスキーの目標、日々の生活の満足から「留学」という言葉は人事だった。「いいなぁ」とも思わなかった。
「大学という一番楽しい時になんでこの環境を離れるんだ。」と私は一分一秒でもその楽しい生活を離れるのが嫌で、「スキーで学生大会に出られるのも今だけなのに」とその環境を楽しむことで必死だった。

で、就職した新宿のスキーのお店でも毎日通勤に疲れながらもそれでも楽しくて、飲みまくり、オールしまくり出勤直前まで仕事場で飲んでいることも多々、それはそれで超楽しかった。


私の場合何かが嫌で環境を変えたことはまだない。たまたまかもしれない。高校も大学も仕事も大好きだったし、その場を離れたくなかった。家族にも友達にも恋愛にも全てに恵まれていたしいつも「時が止まってほしい」といつも思った。
それが新宿で働いていた時ある時、1回目のエッセイで書いたようにふと「留学」を思いついた。毎日楽しくてつまらなかったわけでもない。でも実はつまらなかったのかもしれない。「恵まれすぎていた環境」にもしかしたら慣れてしまって「何かが足りない生活」を無意識に探していたのかもしれない。家族も友達も彼も皆愛してくれた。欲しいものは何でも手に入った。好きなことをしていつも幸せだった。でも何か窮屈に感じる時もたまにあった。それは新宿の光景だった。狭い空、毎日人で溢れている街、いい意味で新宿の窮屈さが何かきっかけをくれ、自分では気がつかなかったが無意識に「留学」を口にし始めたのかも知れない。そしてそれがついに頭の中を「ちゃんとした想い」としてよぎり、そしてその想いは「衝動的な行動」を起こすまでに到った。

そして始まった留学生活。カナダ、イギリス、次にすぐにNZと思っていたらふと受けた英会話講師の仕事が決まり、99%くらいの勢いでその仕事のオファーを断ろうと思っていたのが「せっかくならやってみるか」と始めた。NZにワーホリで来るにはその前に日本での滞在が6ヶ月ないといけない。その為に「一時的ならいいか。」「3ヶ月後に辞めればいいか」と気軽にスタートした。それなのに次はその仕事にはまってしまって結局1年続いた。英語に興味のある生徒達は夢のある子が沢山で、そんな子達を見ていると本当に幸せだった。だからNZに来る前だってその環境を離れたくなかった。

それなのにじゃあなぜ環境が変るのかと思えば、「運命」だと私は思う。99%気軽に初めた英会話講師の仕事先で今の彼に出会う。もし新宿でのあの時のふとした瞬間がなかったら私は「留学」なんてせずに、そしてその当時の彼と結婚していたであろう、そして今はここにはいない。
そしてもし英会話学校の仕事を99%確率に従って断っていたら今はアメリカにはいない。この仕事もしていない。
「運命」を信じるかどうかは自由だとしても、でもその「運命」が与えてくれた環境を信じるか信じないかでは生き方が違ってくると思う。
時たま自分のいる環境を疑って、そして本当に嫌気がさす時だってある。それでもその環境を受け止めずに、そして信じることができない限り、何も行動は起こせない。
幸せだって掴めない。
きっかけが運命だろうと何だろうと一度始めたことは最後までやり遂げる。
最後までというのは自分が満足のできるところまで。
そしてもしそれが「留学」だとしたら、自分が満足いくまでやってみて、そしてどんなことが起こってもその環境を信じて、自分を信じて幸せに思うべきだ。

いいこと言いますね、という方。
感動しました、という方。
運命信じます、という方。
クリックで応援よろしくお願いします。


(Ai)
哲学的な内容ですね♪
昔、何かの本で読んだ記憶があるのですが、この世に人が生を受ける前、神様から人生を提示され、その内容に納得した人が、自分で選んだ人生で、新しい生命として生まれると・・・。
真偽の程は定かではありませんが、今でも私の心の片隅に残っている言葉です。
ここからすると、私も運命は信じる方ですね^^
ある女性が電車にぎりぎり乗れた現在と、ぎりぎりで間に合わなかった現在が同時進行で展開されるんです。
人生ってスライディングドアの映画のようなものかもしれません。
あのとき、この道を選ばなかったら、違った人生だったかもしれない。あのとき、これに出会わなかったら...でもやり直しはきかないんですよね。
運命という言葉も信じますが、その偶然を呼び込んだり、選択したのはすべて自分なんですよね。
大きな決断だけでなく、人生って意外に小さな選択でかわっていくのかもしれません。
例えば、今日シリアルでなく、蒸しパンを食べたという選択。それが人生を左右するのかもしれないですよ。Umiささん。
たまたまNZに知合いがおり留学先がNZだったことが彼女の運命だったと感じます。
いつも娘に言うことは、「流れに任せなさい」ということ。
自分我ではなく、信頼できる人の助言にも耳を傾ける、「聞く耳」も必要なのではないでしょうか?
たまたまNZに知合いがおり留学先がNZだったことが彼女の運命だったと感じます。
いつも娘に言うことは、「流れに任せなさい」ということ。
自分我ではなく、信頼できる人の助言にも耳を傾ける、「聞く耳」も必要なのではないでしょうか?
Umiです。
シリアルではなく、蒸しパンを食べたこと。
この小さな選択が人生を左右するかもしれないと考えると、とても楽しいですね♪
はっぴぃきうぃさんの仰るとおり、日々の小さな選択の積み重ねが、人生の大きな岐路を異ならせるのでしょうね。
NZを逃げ出してガイアナに来た者です。
私の場合嫌で環境を変えたのですが
もう負けられないという意思で頑張っています。
もうガイアナも5年になります。
返信遅くなってしまってごめんなさい!!おもしろそうな本ですね!タイトル覚えていますか??!!なんだか思いのまま書いた文が哲学的?な内容に発展してましたね・・(笑)
まず、返信送れてごめんなさい!!
その映画、探してみてみます。超面白そうです!!確かに「小さな選択」がきっかけとなって後に大きな変化を生み出す・・蒸しパンを食べたUMIさんが蒸しパン好きで誰かに出会い・・とか!!(と、UMIさん、勝手に物語を始めてしまいましたっ!!すいませんっ(笑))
でも私の友達の両親はバスの運転手と乗客の関係で恋愛に発展し、結婚です。
それもふとした瞬間からなのかな、と思うと運命って素敵な瞬間もたくさんありますよね。
始めまして!そしてコメントありがとうございます。そして、、返信遅れてごめんなさい。
おっしゃるとおりだと思います!!
「聞く耳」、大切だと思います。私は特に母と仲がいいので、いつも何かあると母に相談します。もちろん自分の意見はいつだってある、でも母の助言やふとした言葉はすごく大きいです。そして留学を決めたとき、今思えば新宿で働いていたときの取引先の社長さんが、よく、「留学はいいよ。」と何かあるたび言っていたのを思い出します。その言葉も何気なく私の心に伝わっていたのかな、と思うと誰かの言葉ってすごく大切ですね。
Kittyさんのコメントで改めて再確認できました!ありがとうございます!!
始めまして!そして返信遅れてごめんなさい!!
実はその気持ちよくわかります。私の場合、きっかけが「運命」なり「環境が嫌で変えた選択」ではないけれど、それでも逃げ出したくなるときはあって、そういうとき、「負けられない」という気持ち、大きいです。NZに来てからの私の人生は驚くほど波乱万丈で、こんなこと私の人生で起こったことなくて、「厄年?」」と疑うほど。で、もう日本に帰りたいと思う事が最近もあって、そんな時、「始めた人生、ここでめげるか。幸せでいるぞ。」と。
でも、とにかくガイアナ5年もってすごいですね!!
確かに!何か結果を待っているときって、その結果を「運命だろう。」と思えば楽ですね。でもたまに思い通りにいかなかった結果はすごく悔やんでそう思えない・・・私また矛盾したこと言ってますね!(笑)そういうときってなぜか「運命」と思わず自分の努力や能力が足りなかったんだってやけにしつこくその結果を受け止めない・・たまに自分がよくわかりません・・!