
さて、私は久しぶりに学校で自己嫌悪に陥りました。それは「私は英語を話せない」ということを、まざまざと公衆の面前に晒したことです。

先週の金曜日は、前々回のブログでもお伝えしたように、グループプレゼンテーションの発表会でした。このグループは滑り出しは好調でしたが、途中大幅に失速。あいにく順風満帆ではありませんでしたが、発表会1時間半前に無事に準備は完了。
その最終打ち合わせで、各自が写真を見ながら説明する原稿の読み合わせに入ったとき、私はリーダーに「私のスピーキング力は未熟だから、簡単な単語と平易な文章で構成したい。また原稿から過剰説明は省き、キーポイントだけ書き記したい」と伝えました。

すると彼は「それは違う。話すのが未熟であれば、手持ちデータは多いに越したことはない」と、A4サイズ3枚の原稿削減を譲りません(各自持ち時間は5分)。そこで話が硬直し、最終的に私が最善を尽くすと譲歩しました。

しかし、そんな不安を抱えたまま進んだ発表会場には、教科担任以外に学校の事務長を初めとする傍聴者の姿がありました。

この時点で私の緊張はピークに達し、プレゼンを始め2分も過ぎた頃でしょうか。頭が真っ白になり、原稿を見ても言葉が出ません。代わりに出るのは冷や汗ばかり。

このとき、私が話すことをが苦手と知る先生たちが「Umi,あなたはよくやっているから続けて」と一喝。同じく友人も「落ち着いて」と抱きしめました。そんな彼らの励ましで、ようやく終えたプレゼンテーション。
最後の講評で合格点はもらいましたが、先生がリーダーに「Umiの英語力を考慮し、難しい単語は避け、平易な文章を与えるのがあなたの役目」と苦言を呈しました。
私はそれを聞きながら自分への情けなさがあふれ、うっすらと悔し涙も浮かんできました。このように遠まわしの言い方で「あの子は英語を話せない」とレッテルを貼られ、同情されるよりも、どれだけ自分の未熟さを叱咤激励されるほうが良かったでしょうか。

間もなくこちらに来て2年。会話力以外のスキルは、最近更に上達している手ごたえを感じます。これはレポートの追試の激減、私がクラスメイトにアドバイスやヒントを求められることにも現れています。


その一方で未だに流暢に話せない英語。「リラックスすること」これ以外に私の英会話力を上達させる方法はないと、私をよく知る人たちは断言します。
しかし、私はこの言葉の意味を今なお理解できず、その特効薬探しの旅を続けています。


私も英語話せません、と言う方。
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(Umi)